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準備が進む加曽利貝塚 [地域]

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わざわざ暑いところに行っています。




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国の特別史跡に指定されることがほぼ確実になった加曽利貝塚ですが、これまで発掘調査されたのは全体の 7% だということで、さらなる発掘が計画されています。




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そのために木を伐採するという話を前回聞いたのですが、実はここの木は樹齢百年を超えるものがあるもののもともと生えていたものではないそうで、発掘された種子などから当時の様子を推測して植えられたものです。




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枝だけ切られたものもあります。




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山林の中にはヤマユリもあります。




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たくさん蕾を持っています。




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この雰囲気がいいかな?




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夏の日差しは強いです。




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敷地の中に鉄塔がありますが、この鉄塔と博物館は移転しなければならないそうです。




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鉄塔は東電のものでしょうが、どう対応するかはもう決まっているのでしょうね。




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断層の観察施設なども人工のものですが、それらは移転しなくて良いそうです。




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観察施設は盛り上がった部分に作られています。




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この文字を書かれた浅見喜舟氏は千葉県書道会の重鎮でした。




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来月下旬に発掘調査が行われるとあります。

発掘調査の様子も見てみたいと思います。





 

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特別史跡指定ほぼ確実:加曽利貝塚 [地域]

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 '17.6.18 追記

写真を数枚追加しました。


今日は大賀ハスを撮りに行ったのでいつもならその写真をアップするところですが、おめでたいことがあったのでそれを先に取り上げます。

 

昨日既にニュースで流れたそうなのですが、今年一月に申請した加曽利貝塚の特別史跡指定は実現の運びとなりました。

 



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今朝の読売新聞の地域版でも千葉日報でもトップで取り上げられていてそれを見て来た人もいたのですが、新聞も読まずに出かけたのでここに来るまで知りませんでした。

 

国の文化審議会の(松野文部科学大臣に対する)答申通りに指定されるのは確実だそうで、秋に官報に載って、その日をもって正式に指定されたこととなるそうです。




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前回問題とされた博物館は移転(場所、時期は未定)することになりますが、駐車場はそのままで良いそうです。

駐車場は別の場所にも確保しないといけなくなるでしょうね。

写真の、断層を観察することができる施設もそのままだそうです。




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ニャンコもそのまま . . . 。




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こうしたものは書き換え換えられることになりますね。




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イボキサゴのスープが作られています。




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念願が叶いました。

 

 

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これも所定のシンプルなものに置き換えられるとのことです。

博物館は移転しますが、ほぼ一箇所しかないトイレは改修・拡張されるでしょう。

意外でしたが、自動販売機も設置できるらしいです。




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市原市の例の場所が認定されて「チバニアン」が実現すれば、千葉県にとって大きな喜びが二つになります。




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正直難しいのかなとも思いましたが、こんなに早く願いが叶うとは思いもよらないことでした。




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関係の皆さんの努力が実りました。

皆さんの喜びも一入でしょう。



 

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家康は「千葉御茶屋御殿」を利用したか? [地域]

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以前も触れたことがある「東金御成街道」です。



船橋から東金までのほぼ一直線の道で、家康が鷹狩りのために作らせたと一般に認識されています。


三日三晩で作られたとか一夜で作られたとかの伝承が残っていますが、本当に三日で作られたかどうかはともかくとして、短期間で作られたものであるようです。



史跡としては千葉市若葉区御殿町に「千葉御茶屋御殿」跡が残っていて、ここを家康が利用したと言われています。


終点は現在東金高校となっている位置にあった「東金御殿」ですが、その先山武市までも同時期にほぼ一直線の道が作られたようです。


街道は千葉市から八街市に入った地点で山林になってしまい、足を踏み入れることができませんが、その少し先に往時の姿を残す部分があり、八街市の史跡に指定されています。


その先はまた開墾(鍋島開墾)のために消えてしまい、ごく一部、民家の入り口に痕跡を残すのみで途切れ、地区の墓地を過ぎる辺りから街道はまた姿を現します。


千葉市若葉区から八街市内を通って国道126号線に向かう道路の途中に道標が立っていて、街道が嘗てここにあったことを示しています。



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地区の墓地です。



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この左の道路が御成街道で、現在はここで左に曲がっていますが、嘗てはまっすぐ通っていました。



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ここにも道標があります。

墓地から東金市方面を望みます。

 

 

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東金市方向から見たところです。



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墓地の端から街道があったはずの方向を望みます。



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左から右に立ち並ぶ木が八街市の史跡に指定された御成街道の痕跡です。

史跡ですが、ここは Fさんの私有地です。



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右に見える案内板から右が痕跡です。



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私有地で、道路としては使われていないので往時の姿を今に伝える貴重な史跡となっています。



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反対側は畑になってしまっていて、痕跡は全くありません。



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八街市(手前)と千葉市の境です。



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境界辺りから千葉市方向を望みます。



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千葉市側から境界方面を望みます。


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このカーブの頂点から先にまっすぐ延びていたはずです。

 


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八街市に入った位置から八街方面を望みます。



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境界より少し八街市に入った位置に案内版が立っています。



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御茶屋御殿跡への入り口です。



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さて今回の本題は御茶屋御殿です。


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現在千葉市若葉区の御茶屋御殿跡は「千葉御茶屋御殿跡」と呼ばれていますが、これは正しくないという説が提唱されています。


本来この土地の地名をとって「中田御茶屋御殿」と呼ぶべきであるというのです。



かつて(明治初期には)この辺りは千葉市ではなく千葉郡中田村でした。


徳川初期まで遡ることができる記録はありませんが、現在の千葉市、嘗ての千葉町とは別の地域であったことはほぼ確かです。



ここに二種類の資料があります。

ひとつは平成27年に八街市で開催された講演の記録、もうひとつは投稿された論文集です。


重要な箇所を引用します。

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平成26年度八街歴史講演会
「御成街道と八街」記録集 平成27年3月 八街市郷土資料館

P.14
講演3 郷土史研究家 本保弘文氏
「家康「鷹狩り」道
  =東金御成街道〜その謎を探る〜

 造成した村

 さて、この街道は、船橋市、習志野市、千葉市、四街道市、再び千葉市、八街市を通り、東金市に至る約37km、家康の「東金辺鷹狩り」のために造成した、ほぼ直線道です。この街道の造成について、現在、4通の古文書が見つかっています。1通は、千葉市の星久喜村のもの、1通は千葉市の金親村のもの、もう2通は習志野市の実籾村のものです。この中で、習志野市の実籾村のものの1通は、途中までしか残っていません。

 これらの現存する古文書には、この街道の造成に関わった村名、その村の工事距離などが書かれていますが、4通とも同一内容ではなく、村が抜けていたり、村名の順序が異なっていたり、工事距離数が違ったりしています。このため、これらの古文書を比較・精査し、江戸時代の絵図、村明細帳などの古文書、明治初めの迅速測図などと照合しながら、何とかこの街道の造成に当たった村々、その村の担当地域とその距離数を割り出しました。これにはかなりの時間を要し、苦労もしましたが、やっとできあがったのが、資料2(1)の「道普請に当たった村々とその分担距離・場所」の一覧表です。

     中略

 御成街道や御成新道の造成に駆り出された農民は「夫役」という税であり、作業に必要な道具や食料などは持参し、全て自己負担によって工事が行われました。そして、請け負った村の区間の工事が終わると、その役割が終了となります。このため、農民たちは、早朝から大木などに掲げられていた白旗を目標として工事を始め、夜間になるとやはり大木などに掲げられていた提灯の灯を目標にしながら工事を行ったという伝承があります。

 この他に伝承として、「一夜にして造り上げられた」とか「三日三晩で造られた」という話があります。かなり、工事を急いだようで、千葉市の犢橋町には直線の道にすべき所が大きく曲がっている所があります。これは、この付近の工事で、東金に向けての工事と船橋に向けての工事がここで結びつかなくなり、両方の村とも譲らなかったため、仕方なく曲げて結びつけたといわれています。

 他方、工事期間について「一夜で造り上げた村」「三日三晩で造った村」など、村によって違いがあるようです。家康が土井勝利を呼び、東金辺で鷹狩りをするので準備をするように命じたのが慶長18年(1613)12月12日、家康が御成街道を通ったのが翌19年(1614)1月8日。その間は26日です。この期間に御成街道と千葉・東金の2つの御殿を造り上げるわけです。研究者の中には、街道と御殿を造り上げたのは、家康の東金鷹狩りの2回目、元和元年(1615)11月で、工事は1ヶ年ほど費やしたという人もいます。しかし、当時は、まだ生きるか死ぬかの戦国時代の延長であったことを考慮に入れると、短期間で造り上げられたという方が正しいのではないかと思われます。



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千葉いまむかし No.18 平成17.3.31 千葉市教育委員会

  千葉におけるもう一つの御殿跡
          ─千葉御殿と千葉御茶屋御殿─
          簗瀬裕一氏(元千葉市教育委員会)
P.41

このように中田町にある「御茶屋御殿跡」については、基本的な事実はかなり明らかになってきたといえるが、しかしなお、いまでは「千葉御茶屋御殿跡」と呼ばれることの多いこの遺跡の評価において、最も基本的な部分が未解決であると筆者は考えている。千葉御茶屋御殿跡という遺跡名については、「御茶屋御殿跡」が千葉市に限らず各地に残っており、御茶屋御殿跡という一般的名称のみでは不都合なので、所在地の名を付すのが一番理解しやすい取り扱いである。そのような観点からすれば、千葉市の御茶屋御殿跡は、その所在地から本来なら「中田御茶屋御殿跡」と呼ぶべきであったのである。史料上でも千葉市の御茶屋御殿跡が、「千葉御茶屋御殿」と表記された例は確認されず、「千葉御茶屋御殿跡」という名称が歴史的なものであるかのように誤解される下地がここにあると言わざるを得ない。

 これまで『徳川実紀』(以下『実紀』)などの、慶長十九年一月や元和元年十一月の記事に見える「千葉」という地名については(第1表)、千葉御茶屋御殿跡にあてる理解がなかば通説化しており、徳川家康や家忠が東金で鷹狩りを行った時には、簡単に言えば、船橋から御成街道を利用し、千葉御茶屋御殿を経由して東金との往復を行ったと考えられてきた(第2図)。こうした理解により、通常地元では単に「御茶屋御殿跡」と呼ばれてきたこの遺跡に対し、「千葉御殿」や「千葉御茶屋御殿跡」という名称を与えるといったことが行われてきたものと考えられる。しかし、本稿で以下述べるように、右でふれた『実紀』等にみえる「千葉」は、中田町にある御茶屋御殿ではなく、現在の千葉市の中心部、かつての旧千葉町を意味するか、もしくはそのなかにあった「千葉御殿」を示すものであり、したがって、「千葉御殿」と「千葉御茶屋御殿」とはまったく別のものなのである。

 これまで、『実紀』等の「千葉」を「千葉御茶屋御殿跡」とみない意見は少数ながら存在したが、それが評価されることはほとんどなかったといえる。


4 東金へのルート
P.48
 こうした考え方については、前述のように『実紀』等にみえる「千葉」を千葉御茶屋御殿ではなく、そのまま千葉ないし千葉御殿と考えるとまた違った事実が明らかとなってくる。慶長十九年については、「上総国土気東金」(『駿府記』)がその目的地であった。具体的な経路については、『実紀』や『駿府記』には東金と千葉のみが書かれ、その間の詳しいルートは省略されているが、『當代記』では、家康が慶長十九年七日に「とけとうかね」へ出かけ、十八日に「とけ」より江戸へ帰ったとの記述があり、他にも『本光圀帥日記』第十一慶長十九年正月七日、『細川家記』忠興八十四年正月九日にも、土気・東金へ鷹狩りに出た記述が見える。『頂妙寺文書』「二月五日付け榮任書状」にも、「正月七日、大御所様、上総土気東金へ御成」との記事があり、一時史料として重要である。こうした一連の史料によるかぎり、この初回の東金鷹狩りは、千葉から土気を経由して東金を往復したと考えるのが妥当である。そうすると、この時は東金御成街道を家康は通っていないと考えられるのである。したがって、千葉御茶屋御殿にも立ち寄っていないはずである。

 この慶長十九年の東金鷹狩りで、家康が東金御成街道を通らなかったのは、街道が完成していたにもかかわらず通らなかったのか、それともまだ未完成だったのか確たる証拠はないが、近隣の農民等を大量動員して作り上げ、完成していたにもかかわらず、そこを通らなかったということであれば、鷹狩りの名目で各地に出向き、よく民情を視察したといわれる家康の行動としてはふさわしくないのではないかと思われる。とすれば、慶長十九年正月の段階では完成していなかったと考えるべきであろう。右に見た記録類では、家康の東金鷹狩りの意向が示されてから、鷹狩りの実施まで長く見ても一ヶ月ほどであり、実際の工事にかかれる体制を整えるまでの時間を考慮すれば、まさに「三日三晩」の突貫工事によって街道を完成させなければならないが、約三十七kmもある道路をそのような短期間で完成するのは不可能であったと考えられるのである。この工事は、現代の高度な土木技術と機械力をもってすれば可能かもしれないが、それでも簡単なものではないなずであり、ましてや江戸初期においては無理であったと考えられるのである。

 したがって、慶長十年(管理人注:慶長十九年の誤記と思われる)の東金鷹狩りにおいては東金御成街道は完成しておらず、家康は千葉から土気街道(これも御成街道と呼ばれた)を経て、その先はおそらく大網を通って東金に入ったものであろう。そして、東金御成街道を初めて家康が通ったのを確認できるのは、翌元和元年である。『実紀』等によれば、家康は往路は、船橋─千葉─東金、復路は東金─船橋のルートをとっている。往路の千葉─東金については、土気を経由したのか、旧東金街道を通り直接東金に入ったかは不明であるが、千葉を経由しているので、この時は東金御成街道を通っていないと考えられる。復路については千葉を経由した形跡がなく、金親村で神尾守世(久宗)が家康に御膳を献じており(『断家譜』考えられる巻十)、金親町の金光院で休息したともされるので、この時初めて東金御成街道を通り、千葉御茶屋御殿も使われたものと考えられる。『断家譜』巻十によれば、神尾氏は元和七年と八年にも将軍に御膳を献じているので、この二回についても東金御成街道を通った可能性が高いが、元和八年については、他の記録類にはその事実が確認できない。

※'17.3.7 追記。
一部、途中に改行を挿入しました。

本保氏は

 工事はごく短期間で完成し、家康が御茶屋御殿殿を利用した

とする立場で、

簗瀬氏は

 工事には1年弱を要し、家康はほとんどこの街道を通ることはなく、確実なところでは復路としてこの街道を利用し、その際御茶屋御殿を利用した

としています。


それらの根拠については引用した文章に述べられていますが、私には簗瀬氏の説が説得力があると思えます。

 

 

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※'17.3.7 追記。
「千葉御殿」があったとされる場所。現在千葉地裁などが入る都川沿いの千葉合同庁舎。

少なくとも当時は現在の「千葉御茶屋御殿跡」のある地域は千葉市ではなく、千葉とも呼ばれることもなかったでしょうから、「千葉」は当時の千葉町、そして現在は痕跡がなくなってしまった「千葉御殿」を指すものと思えます。


資料に記載された古地図では「かのや(金親町。千葉市若葉区)」「いさこ(砂。八街市上砂)」と書かれ、その間に「御殿」があります。それは現在の「千葉御茶屋御殿」ですが、そこは当時は「千葉」ではなかったのです。



簗瀬氏の説では土気(とけ。現在の千葉市緑区土気町)の御殿についても触れられていますが、それについては次のサイトに記述があります。


徳川家康の休憩のために造営された「土気の茶亭」






特別史跡指定申請:加曽利貝塚 [地域]

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まだ冬の様相の加曽利貝塚ですが、先日の新聞に国の特別史跡認定のための申請を行ったことが報道されていました。

https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kasorikaizuka/kasoritokubetusisekika.html


特別史跡というのは簡単に言うと「国宝」扱いなのだそうです。



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HP によれば縄文時代の特別史跡は

 三内丸山遺跡  (青森県・平成12年指定)

 大湯環状列石  (秋田県・昭和31年指定)

 尖石石器時代遺跡(長野県・昭和27年指定)

の三つだそうで、指定されれば貝塚としては初めてだそうです。



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この木の下部分はおそらく根だったところで、周囲の土が少なくなって露出したのではないかと思います。



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まだ草がないので雉子の姿も声もありませんでしたが、高いところで木をつつく音がします。



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コゲラです。



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今まで気づきませんでしたが、今回は何羽も見ました。



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すぐそばに住宅地が迫っています。



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花は見られません。



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ここにもいました。



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こんなものも突くのですね。



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移築された旧大須賀家住宅です。

この手前のあたりで土器が焼かれます。



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博物館のそばに水仙がありました。



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裏から見るのは初めてです。


いつもより遅い時間でしたが、犬を散歩させる人の姿が多く、ニャンコは一匹も見られませんでした。


北貝塚とその周辺が昭和46年、南貝塚が昭和52年に国史跡に指定されていて、昨年北貝塚北側隣接地および南貝塚南側隣接地が国史跡に追加指定されたそうです。

特別史跡の指定については

 文化庁から「史跡内に恒久的な施設があるのは望ましくない」と指導された

 (千葉日報 http://www.chibanippo.co.jp/serial/219212






そうで、博物館や駐車場などが作られていることなどが問題点とされているようです。


すぐそばまで住宅地で、道路は門の正面からまっすぐ伸びるもの以外、住宅地との間は車がすれ違うことができない狭いもので、博物館を移設することも駐車場を(大型バスなどが駐められるように)拡張することも困難ではないかと思われます。

どうなるでしょうか?







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櫻木神社(文京区) [地域]

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本郷三丁目で降りてアカデミア・ミュージックに向かう途中、右手に神社があります。

昨日は時間があったので立ち寄ってみました。

 


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Wikipedia によれば同じ名前の神社は野田氏と所沢市、奈良吉野町にあるそうですが、関連はないようです。

こちらの神社はご祭神は菅原道真で、櫻木天神と呼ばれているそうです。

 


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梅が見えたので立ち寄ってみる気になったのでした。


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東風吹かば . . .



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鳩はずいぶん人に慣れています。



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御利益はあったでしょうか。







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きぼーる [地域]

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昨日の地方合同庁舎の隣に「きぼーる」という施設があります。

昔の扇屋百貨店のあった一角に建てられた建物です。



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右が「きぼーる」で、中央がセントラルプラザ跡地に建てられた高層マンションです。



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平成19年7月に竣工したそうですが、中に入るのは初めてです。



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中央のスズメバチの巣のようなものはプラネタリウムであるようです。

子供学習に役立ちそうな「科学館」やショッピングや食事が楽しめるところもあるようですが、そちらには入りませんでした。



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昔とはすっかり変わってしまったなあと時の流れを思いました。






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千葉御殿 [地域]

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調べているのは一つは東金御成街道に関する事柄で、その歴史に関するキーとなる史跡の一つがここ、千葉地方裁判所の位置する一角です。

すぐそばを都川が流れ、千葉城はこの右の少し離れた小高いところに位置します。


XF10-24mm で撮っています。


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この向こうを国道126号が走っています。



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千葉地方裁判所、千葉簡易裁判所、千葉家庭裁判所が集まっています。



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国道126号線方向から見たところです。

 


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東金御成街道に関わる史跡では船橋の船橋御殿、東金の東金御殿、その間にある千葉御茶屋御殿が知られていますが、この場所に千葉御殿があったことがほぼ確かです。

 


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痕跡は何もありませんが、このコンクリートがちょっと土塁を想像させます。


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木の向こうに見えるのが千葉県庁です。

 

千葉御殿がどうしたのかと言いますと、後でまとまってから記事にしますが、

  家康が東金に鷹狩りに行く際東金御成街道を利用し、千葉御茶屋御殿を利用した

というのが広く信じられている説なのですが、どうやらそうではないようだというのが新しい説で、その説の方が根拠が確かで説得力があるのです。

 

もう少し資料調べをしてからまとめるつもりです。







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ならせ餅 [地域]

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資料調べの続きで千葉私立郷土博物館に行きました。

前回より早い時間でお天気も良いのでくっきりとした光景です。



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以前一度だけ利用したことのある茶店「いのはな亭」です。

 


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目的の資料はこれではないのですが、先日の凧などが飾られていたケースの裏に回ってみると千葉市の郷土の行事などが説明されていました。



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その中の「ならせ餅」に目が止まりました。

子供の頃、我が家でも栗の枝を取ってきて丸餅を飾っていました。

父も亡くなり、随分長いこと見ていないのですが、あるときふと思い出してあれはなんだったろうかと考えたことがありましたが、名前もわからず困っていました。

思いがけず答えが見つかって嬉しい日でした。

 

帰って調べてみると主に茨城県の龍ヶ崎周辺で今でも行われているようです。

「ならし餅」というところもあるようです。

今日会社で訊いてみると香取市(旧佐原市)の旧家でもおなじみの風習だそうで、なぜ我が家でやっていたのかはわからないものの、記憶を確かめることができて良かったです。

 

出来るものならやってみたいものです。

写真はありませんが、ご興味がおありの方は検索してみてください。

中には「餅花」のようなものもあるようです。

 


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調べものはもう少しかかります。

次は図書館ですね。







千葉市立郷土博物館の展示物 [地域]

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資料を求めに出かける予定でしたが、今日と明日はお休みのようでした。

次のお休みに行くことにします。

 

先日訪れた郷土博物館の展示物の一部をご紹介します。

中には撮影禁止のものもありました。



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懐かしいですね。

凧はこれでなくては。



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立派です。



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甲冑の実物を見ることはなかなかありません。



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マニュアルがあったとは知りませんでした。



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先日 NHK で春日大社の刀を復元(複製)する試みを放送していて興味深く視ました。

刀も実物を見る機会はなかなかありません。

 

 

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美しいですね。



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秋の演武で見た大筒と同じに見えました。

葵の御紋が付いています。



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巻いて作るのですね。

それはそうですね。

フルート(巻管)と同じです。



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火縄銃。



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千葉常胤の木像。

千葉常胤は千葉氏の祖である平常重の子で、保元元年(1156年)の保元の乱に出陣し源義朝指揮下で戦ったそうです。



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現在の千葉神社は妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立されたそうで、源頼朝も千葉常胤の案内で参拝したそうです。



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東金御成街道と家康の関連を調べていますとここが関連していることがわかってきました。

それらについて現在資料集めをしています。

 

千葉にはもう一つ「御殿」と呼ばれる建物があったことがほぼ明らかになっていますが、東金御成街道と千葉御茶屋御殿は一般に思われているより使われた頻度が少なかったのではないかと思えるようになってきました。


これらにつてはまとまりましたらアップしょうと考えています。



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こちらは昭和30年代の暮らしについての展示です。

とても懐かしい、と言いいますか実は我が家でまだ一部これに近いものが使われています。



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TV は白黒で、脚が付いていました。

我が家のはこんな立派なものではありませんでしたが、前面にガラスのフィルターのようなものを下げて、布のカバーをかけていました。



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大礼服だそうです。



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現在の千葉トヨペット本社は本当にこの建物です。



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大賀ハスの根です。



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千葉から広まったものは二十世紀梨(松戸)とこの大賀ハスが有名ですね。



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東大の検見川農場(当時)で種が発見されました。


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当時小学生だった、種を拾い上げた方はまだ存命でいらっしゃるそうです。

 

 

千葉市の歴史を確認するため、もう一度行ってみる予定です。

 

御成街道とその完成時期、家康の鷹狩ルートについては 梁瀬裕一 氏による著作と講演に詳しいです。

従来の説と重要な点で異なっており、確実な根拠も示されています。

それらの資料にあたるうち、別の重要な点が一つ見過ごされているのではないかと思えてきました。

従来の説ではなく梁瀬氏の説を補強するものですが、それらの裏付けを取ろうとしているところです。






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千葉市立郷土博物館(千葉城) [地域]

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練習は午後一番の時間であったので終わってから資料を求めにここを訪れました。

 

お城そのものには特に興味はないのですが、中に入るのはずいぶん久しぶりです。



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入館料は無料に変更されたようです。


動物公園の入園料が改定されたのと同じ時期かもしれません。



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外観は一応お城ですが、中は普通のビルのような感じでした。



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4階までが展示室で、最上階の5階が展望室です。



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花見スポットでもあります。



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展示の内容はまた改めてご紹介します。



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フェンスが邪魔ですが、周囲は全部フェンスで囲まれています。


こちらは千葉市中心部方向。



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隣接する千葉県文化会館です。


 XF10 - 24mm で撮っています。



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昔の風景の一部だけご紹介します。



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初代の千葉駅。


 


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現在の東千葉駅の位置ではなく、千葉市民会館あたりであったようです。


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奈良屋デパート写真は初めて見たような気がします。


のちにセントラルプラザという商業施設に変わり、現在はマンションが建っています。



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現在の千葉駅の位置からツインビル方向を望んだ光景です。


千葉そごうはここにありました。



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良いお天気でした。



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駐車場はこちらです。



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求めた資料は旧街道に関するものですが、もう少し資料を集める必要があります。


いつかまとめてご紹介することがあるかもしれません。


 


明日はお天気は下り坂なようですが、朝はまだ降らないようです。


花が少ないですが、取り上げられるものが撮れましたらアップします。




※追記。


 本日 PV が500万を超えました。


 いつもご覧くださる皆様、誠にありがとうございます。




 これからもよろしくお願い申し上げます。

 

 





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